2007年3月17日土曜日

SRSに至る道・母親への手紙(その2)

『リンダから母親への手紙』 (その2)        

結婚と家庭生活
最初の妻と分かれてから、とても親しかった別の女性と親密な関係になりました。その女性と恋に落ちたのは、私にとって一番ふさわしいパートナーであり、私の人生の魂の友であると感じたからです。それが今の妻ジェリです。ジェリに対する愛情にもかかわらず、自分が女性であるという感情からはどうしても抜け切れませんでした。ジェリと私は結婚し、二人にとって当然の帰結だと思い、自然な気持ちから子供をもうけました。二人とも家族が欲しかったのです。そして私は自分の中の女性と闘うように以前にも増して努力するようになりました。

警察官の仕事柄で、世間にはホモが大勢いることも知りました。クリスティーン・ジョーゲンセンの記事も読んだりしましたが、実際は性転換手術にそんなに大金はかからないことや、アメリカでも行っていることなど、性転換ということ自体についても新しい知識を手に入れました。女装をすることも必死になって抵抗したものの止めることはできず、完全な女性になりたいという気持ちも同じでした。その内に妻ジェリが気づいて去っていくことを恐れ、必死になって自分と闘いました。ジェリに対する私の愛情が揺らいだことは一度もないことは、お母さん、信じて欲しいのです。

ジェリと家族を失いたくないため闘い続けた私は、勤務を離れると男の中の男にふさわしいと思われたバイク乗りになり、大酒を飲み、勤務中は危険な任務に進んで志願したりしました。しかし、こんな男っぽい行動はどうしても好きになれなかったし、そんな男に変わっていく自分という人間も好きになれませんでした。1990年にサウスダコタ州で催されたモーターサイクルラリーに参加し、アウトロー・バイククラブの連中と親しくなりました。オトコになるためには無法者のバイカーにならなければと思うと怖さ半分でしたが、アウトローのバイカーより男臭いオトコがいるか、心の中の女性感情など吹っ飛んでしまうぞ、という気持ちで突っ走りました。

ところが、このグループの行動でどうしても好きになれない行為を見たりしているうちに、自分はやはりとけ込めない仲間だと感じるようになりました。こうしなければオトコになれないのだったらもうオトコになるのは止めようと決心したのです。家に帰ると8年間つとめたモーターサイクルクラブの支部長をやめ、愛車のハーレーダビッドソンと付属品一式も売り払いました。あらゆることをやったにもかかわらず、女性であるという感情は依然として居座っていました。この悩みについては参考になる情報もなく、どこからも助けの手は来なかったのです。

お母さん、私の心の中の女性感情はますます激しくなり、このまま生き続けるのは我慢できない、なにか行動を起こさなければ、という気になりました。もうためらっている余裕はなくなりました。お母さん、私はただ内面の苦痛から解放されて幸せになりたかっただけです。本来の自分になりたかったのです。

私には依然として、自分はトランスセクシュアルという感情をもつ世界でも数少ない人間の一人にちがいないという気持ちが残っていました。だれにも本当のことは言えないという恐れでそれまでの人生を過ごしてきた私ですが、人生のパートナーである妻ジェリには本心を打ち明ける決心をしました。彼女が去って行かないことを祈りながら打ち明けました。そのジェリが愛情にあふれ、思いやりのある、強い心の支えとなる態度を示してくれたのは何よりの救いでした。行き着く結果がどうなろうと、私が本来の自分を見つけられるように何でも協力すると励ましてくれたのです。

行動開始
それから私たちはゆっくりと行動を起こし始めました。まずクロスドレシングを試してみましたが、鏡に映ったその自分の姿を見て顔色をなくしました。ジェリに手助けをしてもらったとはいえ、体がでかく、老けすぎで、男そのままという感じで、とても女性らしい姿ではなかったのです。気分が滅入りましたが、最初の幻滅にめげずにジェリと私は参考になる情報を求めて前向きに進んでいきました。

そのうち警察署の仕事では暴力犯罪班に配属になり、性犯罪捜査を担当する刑事になりました。ある日任務中に訪れたアダルト書店で、たまたまジェリも一緒だったのですが、クロスドレシング専門の雑誌を見つけ買い求めました。その雑誌のおかげで今まだ知らなかった世界に導かれ、本・雑誌、心理学的論文、個人の体験談、サポートグループ、社会活動グループ、医学関係者、病院・クリニックなど、この問題に関連する多くの存在を知ることになりました。

ゆっくりではありましたが、私たちはあらゆることを勉強しました。自分が単なるクロスドレサーではなく実際はトランスセクシュアルであるのに気づくにはそんなに時間はかかりませんでした。それは私がいつも感じていた感情そのものでした。そこで精神分析医、二人のカウンセラーの診断を受けたのち、やっと医学面での治療を始めることになりました。自分の心の中でいつも感じていた女性にマッチする体に、男の体を変えていくための準備を始めたのです。

SRSへの具体的ステップ
いま私の受けている性別再指定の治療法はゆっくりしたプロセスで、いろんな分野の医者や精神科医のチェックを受けなければなりません。私自身の最終目標ははっきりしていますが、医学関係者の方から次のステップに進むのを勧めることはなく、あらゆる資格条件をクリアした段階で本人が希望した場合にだけ、最終目標のSRS手術が許されるのです。

今の私は1995年8月から始めたホルモン治療により性別再指定を受けています。女性ホルモン剤のプレマリンと、男性ホルモンの産出を抑制するステロイド剤であるスピロノラクトンを服用しています。その結果、今まで不可能だと思っていた自分のイメージが目に見えるようになり、あの大柄の、老けた、男にしか見えない、という以前の感じはなくなり、不可能が可能になったのを感じます。自分の願うようには美しくはなれないとしても(まあしょうがないか)、女のドレスを着た男でなくなったことは確かです。

お母さん、この私の状態について親として負い目や責任を感じたりする必要はまったくありません。現時点での科学的な研究では、性同一性障害やトランスセクシュアルの原因としては、誕生前の胎児段階でのホルモンの影響やホルモンバランスの問題が指摘されています。その結果として身体的には一方の性の特徴をもち、性意識としては別の性の特徴をもって生まれてくる個々のケースがあるということです。性転換症についての最新の研究発表のどれを見ても、私のような症状の原因が誤った育児方法にあると指摘するものは皆無です。

この40年間というもの、心の中では女と感じていたので、自分をとりまく現実は不快であったものの、どうすることもできませんでした。ところが今では、かってなかったほど幸せで気分も楽になりました。精神的な苦痛もなくなり、いろいろあった健康上の問題も消えてしまいました。

お母さん、私のような症状は時間をかけて何回も何回もチェックし、さらにダブルチェックするという課程を踏んで治療しなければいけません。また途中でいつでも治療の過程をストップしてもかまわないし、中止するのを勧められる場合さえあります。自分で違和感をもつ場合にはそれを越えて先には進まないように指導されます。私の場合はそれらの関門を順次通過して今の地点まで到達したのです。

お母さん、参考までに今私のたどっている道程はこんなものです。
ジェンダーの問題に精通している精神科医に定期的に診断を受けること。SRS(性別適合手術)の許可の前には別の医師からのセカンドオピニオンを得なければなりません。ホルモン治療による性別再指定はすでに1995年8月から行っていて、今も続けています。

電気分解脱毛法による顔面の脱毛は痛いだけでなく時間がかかります。1ヶ月に6時間にまで減らせるようになりましたが、やっと50%終わった段階です。

リアルライフテスト。生活のすべての面で一日24時間女性として生活しなければなりません。これはSRS(性別適合手術)を受ける前に、女性としての生活に適応できるように準備するためです。

名前変更。これはいろんな法律的理由で実現が長引いていましたが、この夏の終わり頃には有効になります。(登録申請はもう済んでいて裁判所預かりになっています。) 今使っている名前はリンダ・アン・シンプソンですが、これが登録される正式の名前となります。

SRS(性別適合手術)。これは単なる整形手術だと思ってもらって結構です。1997年までは手術に進むつもりはありませんが、この手術の経験のある医師の何人かとはすでに連絡をとっています。世界中で30人ほどいますが、私なりに下調べをして何人かのお医者さんを検討して、今のところ一人か二人に候補をしぼっています。

お母さん、この手術は男を女に転換する手術ではありません。そんなことは不可能です。この手術は赤ん坊として生まれた時点での間違いを訂正しようとする試みと理解してほしいのです。また、これはセックスに関する問題でもなく、ジェンダー(性意識)に関するものです。セックスはこの問題とは関係なく、世間一般で言われているように、「セックスは両股の間にあるもので、ジェンダーは両耳の間にあるもの。」 ちょっとふざけた表現だとは思いますが、それは真実をついています。

このような告白を聞いたショックで、お母さんはどうしたらよいか途方に暮れているかと思いますが、お母さんの気持ちがよく分かるなどと軽々しく言うつもりは全くありません。同じように、他のトランスセクシュアルの人ならともかく、私が今どういう気持ちで生きているか、またこれまでどのような行き方をしてきたか、完全に理解してもらえるとはとても思えません。繰り返しになりますが、お母さんに言いたい一番大事なことは、私のこの症状はお母さんやお父さんには何の原因も責任もないということです。正直なところ、このジェンダーの葛藤があったことを除いては、とても幸せな子供時代を過ごせたと思っています。

私の友人や家族、それに職場の同僚などからはリンダとして受け入れられていて、気まずい反応はありません。ほとんどの場面で周囲から前向きな反応があるので、私自身うれしいと同時にびっくりしているほどです。また幸いなことに、最近では時代の雰囲気も変わってきていて、人々の受容度もひろくなり理解する人も増えました。ガンや糖尿病などの病状をもつ人を悪く言わないと同じように、私のような症状に偏見をもつ理由はないはずです。それでも、ある種の人たちとはトラブルに遭遇することも現実的にはあり得ることは承知しています。今までの人生で経験したいろいろな障害にくらべたら、これから起こりうる障害物を乗り越えるのは何でもありません。

ジェリも三人の子供たちも全面的に応援してくれています。これから起こりうる良いこと、悪いこと、みんなで話し合いました。将来に何が待ちかまえていようと直面する心の準備はできています。これ以上の素晴らしい人生があるでしょうか!
お母さん、このことのために私を見捨たり、愛するのをやめることのないように祈っています。私の状況をお母さんが簡単に受け入れてくれるだろうとは期待していません。ただ、むずかしいことはわかりますが、理解するように精一杯努めてくれることをお願いするだけです。

お母さん、ありがとう。愛している。リンダより。
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『リンダ・アン・シンプソンのその後」

リンダは1982年以来ジェリと正式に結婚して、3人の子供にも恵まれた幸せな家庭をもっていたものの、幼児期から自覚していた性同一性障害に悩まされ続け、愛妻ジェリの全面的なサポートを得て1997年1月にカナダのモントリオールで性別適合手術を受ける。現在は家族全員で、性的少数者に寛大なワシントン州シアトルに住んでいる。リンダは古巣の警察関係のアドバイザーなどの奉仕活動や、性的少数者に関する啓蒙活動、好きなジャズやニューエイジ音楽演奏などの生活を楽しみながら、ソフトウェア・テスト・エンジニアとしての仕事もしている。

妻ジェリはもともと大好きだったコンピュータをさらに勉強し、今はソフトウェアエンジニアとしての仕事と、リンダと学校に通う三人の子供たちとの家庭生活をエンジョイしている。

リンダの母。リンダが手紙を書いたその母親が、手術2年後の1999年に訪ねてきた。今や娘になった元息子とは何年も会っていなかったが、いろいろあった母親との気持ちのすれ違いも年月が解消してくれ、愛情に囲まれたリンダの家族とふれあった母親は心から再会を喜んでくれた。ただ一つの大きな意見の食い違いは、着る物とファッションのことで、母親と娘の世代の違いはどうしようもなかったそうである。


『クリスティーン・ジョーゲンセン (1926-1989)』

クリスティーン・ジョーゲンセンはデンマーク系のアメリカ人二世、ジョージ・ウィリアム・ジョーゲンセンとしてニューヨークに生まれ育つ。1952年から1954年にかけデンマークでホルモン治療に続き男性から女性への手術を受けた。性転換手術を受けた最初の人ではないものの、初めてマスコミにより公にされセンセーションを巻き起こした人として歴史に名を残す有名人になった。

また彼女の美貌と優雅な立ち居振る舞いを生かして、歌手としてもラスベガスやハバナでなどで名声を博する存在となった。その後の彼女の自叙伝(1967年刊)やその映画版(1970年公開)、各地での講演などの活発な啓蒙活動を通して、性転換症(トランスセクシュアル)は、同性愛者(ホモセクシュアル)や異性装者(トランスヴェスタイト)とは明確な違いがあることを訴え続け、世界の性同一性障害者を勇気づけた。二回の婚約歴はあるが、生涯結婚はせず、最後の2年間はカリフォルニアに移り住み、62歳で肺ガンと膀胱ガンにより世を去った。

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(翻訳文責: 島村政二郎)